■河原郁夫氏からのメッセージ
プラネタリウムと私が最初に出会ったのは、今から70年ほど昔の昭和15年(1940年)で、その当時小学生でしたが、初めて見たプラネタリウム(東日天文館にあったカール・ツァイスU型)にすっかり魅せられてしまいました。こんなに素晴らしいものがあったのだ!それからは病みつきになって、日曜日になると毎週のようにプラネタリウムに行くようになりました。
確かにプラネタリウムには何とも言えない不思議な雰囲気があって、宇宙の神秘とかロマンを来館者に与えてくれる場所だと思われます。或いは、満天の星空とそれにマッチしたBGMには癒しの効果があるのかもしれません。何となく感じの良い雰囲気のある空間、それが何だか分かりませんが、人間にとって大事な場所になっているのではないでしょうか。
この大好きであった東日天文館のプラネタリウムは昭和20年(1945年)5月の戦災で焼失してしまいました。
その後しばらく、東京にはプラネタリウムがなかったのですが、渋谷の東急文化会館にプラネタリウムを設置するということで、私はその当時学芸課長をされていた水野良平先生に呼ばれて、その建設の準備に携わりました。昭和32年(1957年)4月の開館を目指して水野先生を始め、草下英明さん、大谷豊和さん、小林悦子さんの方々とご一緒に、多くの展示品の企画、設計、監修、プラネタリウム解説のための準備等々休む暇もないほど、忙しい日々を送りました。特にプラネタリウム組み立て調整のために来られた、ドイツの二人の技術者の方と深夜に及ぶまで片言のドイツ語で身振手振りで話したことは、今でも懐かしい思い出の一つになっております。
このようにしてプラネタリウムの解説を始めましたが、その後、私はその当時この五島プラネタリウムの評議員をされていた国立科学博物館の朝比奈貞一先生のお声がかりで、昭和37年(1962年)から、神奈川県立青少年センターのプラネタリウム建設のお手伝いをするようになり、開館後、そこのプラネタリウム解説の仕事をするようになりました。
定年後、しばらく嘱託として、神奈川県立青少年センターのプラネタリウムの解説をしておりましたが、平成9年(1997年)2月に、その当時川崎市青少年科学館の館長になられた若宮さんからのお誘いで、そこに移り、週4日解説を行って参りました。
職場は変わりましたが、大好きなプラネタリウム解説の仕事を半世紀以上続けることが出来たのは、私の解説の原点でもある五島プラネタリウムの機械(カール・ツァイスW型)に接する機会があったからなのです。私にとっては、思い出深い故郷のような存在なのです。
戦後初めて東京に設置されて、44年間もの長い間、多くの人々に愛されてきた、このプラネタリウムの姿を何時までも遺していただきたいと念願いたしております。
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